森に生きる、 山に教わる 森林再生・湯浅 勲

人が木を植え、人工林を生みだした。
それらの材木によって経済性を追求するも、
それが、困難とみるや人は、森を放置してしまった。

光を遮られた森は、やがて姿を消す。
そんな森に手を差し伸べなければの強い思いで、
一人の男が、森の再生に真剣に立ち向う。

NHKプロフェッショナル仕事の流儀に、
森の再生に人生をかける男、
森林再生・湯浅 勲が登場。

湯浅の元には、全国から森林再生の道を求めて、
視察に訪れる。

湯浅の仕事は、病んでいる森に光をひきいれ、
水を導き、100年後を見据え森に活力を与える仕事である。

森は手を入れてやれば、よみがえる、
そう湯浅は強い信念で臨む。

人工林の多くの森は、地権者、所有者による森林組合が管理している。
湯浅自身も、京都府の日吉町の森林組合で、
1万㎡の広さの森林を見守る、
23人の職員を束ねる参事である。

すでに、湯浅はこの15年で日吉の森の7割を、
蘇らせており、残り3割の再生に真骨を注いでいる。

湯浅は、高校卒業後一旦都会で就職、
しかし、何か自分で納得できるものがなく、
生まれ育った京都府・日吉町にもどった。

「自然の中で生きているのが、性にあっている」、
そう思ったからだという。

手をつけなければ朽ち果てる森も、
優しく、かつ大胆に木を伐採し、
森が生きやすい環境を作ってやれば再生するのである。

残す木と伐採する木、
要になるものと、伐採し放置し自然に返す木を選ぶ。
自然は、自分たちの生き方をもっている。

人の手で作った森だから、責任をもって守ってやる。
それが、湯浅のこだわりである。

森を再生するときの問題で、
重要な要素は、採算性の問題。
森に手を入れるコストが、やみくもにやると、
大変高いものになってしまう。

これを湯浅は、自然を読みとり、
自然の水の流れを探り当て、
自然に教えてもらいながら山の命である「道」づくりに、
最も多くの時間と労力と知恵を使う。

「答えは、山に聞け」、
湯浅はそのことにこだわり、
山にも忠実に接することで、
答えを導いていく。

湯浅は、過去に痛い目にあい、それが教訓となり、
「自然に逆らわないで、道を通す」と会得する。

森林再生は、湯浅一人でやれるわけでもなく、
森林組合の人たちと気持ちが一つにならなければ、
出来るものではないことを、湯浅は熟知する。

森で働く人たちの出来高払いというシステムが、
やる気と責任感をなくしているとして、
あえてコスト負担となる月給制を持ちこむ。

やるのは森にいる現場の人たち。
その人たちと森林組合の事務方の意思疎通が、
なければ森の再生は出来ないと湯浅は痛感している。

何かを変えようとするとき、必ず「でも、しか」が、
頭をもたげる。ネガティブな方に先に目が向く。

そうさせるのは、「意欲」の低さがさせる。
「意欲」の高さが創造を生むとは、
つい最近の茂木さんの「クオリア立国論」で再認識したばかりだった。

湯浅は、常に一瞬一瞬を燃焼させる。
それは、自然もそうしているから。
一瞬の積み重ねが時間の経過となるからだ。

自分の気持ちの中で、吹っ切れたものがないと、
人はなかなか行動に移せないものである。
湯浅は、それを「心が納得してこそ、前に進む」という。

私たちも地域の活性化を目指すとき、
常にぶち当たる問題点が今回の放送をみて、浮き彫りにされた。

「自分たちのことを自分たちで考え、知恵を出し合う」、
やるのは、当事者。例え専門家のアドバイスを受けたとしても。

湯浅は、本当に森を愛している。
森とともに生き、森への感謝を忘れない。
湯浅は自然の一員として溶け込んで仕事に励む。

「山が通してくれるところを通す」、
湯浅が言う言葉だが、人は自然の一部、
自然に生かされているという、リンゴ農家の木村と、
考えかたが同じである。

「森を生き返らせる、手をいれてやれば、
それが出来る」、という熱い気持ちが、
常に湯浅を森に向かわせる。

私たちが、現実社会でぶち当たる問題が提示され、
自分たちのことのように見ていた。

私は、湯浅に背中を押してもらった。
今日、私たちは、午後からある会合をもつ。
しっかりと軸足を見つめて、仲間と話そう。







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