|
3.・1以降5カ月が過ぎた。故郷、宮城県出身の3人が今、思うことを正直に語り合った。 稲垣潤一(58)・・ミュージシャン。1982年デビュー。80年代を代表するアーティスト。92年「クリスマスキャロルの頃には」は、ミリオンを達成し、今も歌い継がれている。 大友康平(55)・・ミュージシャン、1980年学生時代にHound Dogを結成、85年「ff」などヒットを飛ばし、ロックミュージシャンとして現在も活躍している 山寺宏一(50)・・声優・俳優 多彩な声で声優として地位を確立、最近では俳優としての存在感をだしている。 今回の東北大震災をきっかけに宮城県出身のアーティストたちが集まり「みやぎびっきの会」を結成した。「びっき」=「かえる」という意味をこめている。 3・11の時、どこにいた? 山寺は、東京の麹町で声優の仕事をしていた。稲垣は、甲州街道を走っていた。パニック映画みたいだと当時を振り返る。 大友は、いよいよ東京にもきたんだと感じた。マネジャーのワンセグをみて、東北の実態を知り唖然とした。78年東北沖地震を経験し、その時は人ってこうやって死ぬんだと思った。仙台にいる大学時代の友達は、そんなもんじゃないといったという。 3・11直後、歌うなんて考えられなかった稲垣。一番必要なものは、「歌」ではないと思った。大友も同じ思いだった。山寺は、芸能人が目出とうとしてやっていると思われるのに抵抗があった。仙台人は、変に思われるじゃないかを気にする。しかし、やらなきゃいけないと、思いをぶつけた大友。 稲垣はなんと初めてストリートライブをやった。思い出のある一番町で。告知は「ツィッター」を使った。これには、ブログしかしていない大友も関心しきり。 大友は、学生時代一番町で暴れていた。稲垣がセミプロでやっていた店でドラムでボーカルというのを見ている。稲垣は、28才でデビューするまで10年ほどライブをやっている店でセミプロとしてやっていた。大友もドラムとボーカルをやっていた。大友、学生時代の最後の演奏を稲垣は見ていた。 仙台から上京し、感じたギャップは? 稲垣は、イントネーションでひっかかった。大友は、方言を連発していた。宮城は、魚、肉、水がどこに行ってもうまい。ドラマで仙台にいき、若手にどこの居酒屋がうまいかきかれると、「どこにいってもうまいよ」と答える。 仙台で育った環境は、稲垣にとって音楽への理解のある場所と感じた。中学の教室を練習に使わせてくれたりした。山崎は、宮城を自然と文化のバランスのいいところだと表現した。 宮城県民は、ひっこみじあん? 気質として、目立ちたがり屋ではないという稲垣。それには、大友、山寺も同意。 宮城スタジアムでプロ野球が始まったとき、楽天の嶋選手の野球の力を信じようといったことに感銘を受けた3人。東北で初めてできたプロ球団。楽天ファンは、負けても最後まで球場にいるし、やじることをしないと、前監督野村の話を披露した。 人に感動をあたえるのは、何ごとにも一生懸命な姿である。「歌」は、言葉をつたえるものと大友はいう。作家の伊集院もそう言った。 3・11以降、歌には人を元気づける力があると感じた稲垣。今後も、その気持ちは変わらない。何をやるべきか、自分の仕事で発信していくと、山寺。 被災地では、運命的な話が多く聞かれる。「あんな約束していなかったら」とか。約束を守るために被災した人も多くいる。 それが、ある意味人生なのかもと、大友は考える。「たらねば」は通用しない。今、少し落ち着き、今後の事を考える時。東北大震災を風化させないように、支援をつづけると誓う。 伊集院は、被災者の人たちに「寄り添う」、一緒に話をきいてあげる、そういうことが大事だといった。大友が、そう話してくれた。 生きることにはいろんな局面と向き合うことを強いられる。予期せぬことが起きるのを経験した人たち。他人事ではないと、多くのひとが痛感しただろう。復興は、まだまだこれから。次第にニュースにも登場しなくなった頃から、本格的になっていく。私たち阪神淡路大震災の時もそうだった。 少なくとも、10年という長いスパンで考える必要がある。一日一日を大切に過ごしてください。必ず復興できます。「諦めないで」。 |
| << 前記事(2011/07/30) | ブログのトップへ | 後記事(2011/08/01) >> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2011/07/30) | ブログのトップへ | 後記事(2011/08/01) >> |