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音楽を仕事とし、 こよなく音楽を愛する3人の男たち、 好きな音楽、親子について語らう。 フジTV「ボクらの時代」に、 シンガーソングライターで、小説家のさだまさし、 作曲・編曲家服部克久、 同じく克久の息子で作曲・編曲家の服部隆之が出演。 さだの克久との出会いは、22才のころ、 交響曲(シンフォニー)の編曲依頼をした時。 当時克久は30代であった。 隆之は、中学校のころ、 さだと出会っている。編曲の最初の仕事は44才、 さだの曲である。 克久は、さだの曲は主張がはっきりしているが、 それに自分の独創性を加えるのが編曲家という。 さだは、克久はちゃんとハンコを押す、服部克久編曲というように。 編曲とは、裸ではみっともないから、服を着せ、人前にだせるようにするもの。 克久も隆之も同意見である。 さだは、裸(曲のまま)が通用する歌を作りたいと思っている。 隆之は、メロディーがしっかりとしていないとオケーストレーションが出来ないという。 服部克久の父は、作曲家服部良一。 父は、いい服をつくる名人。着物を着た状態を想像して裸(曲)をつくっていた。 音楽は誰からの影響? 克久は、父良一から音楽家について何にもいわれなかったという。 隆之は、音楽は好きだった、良一、克久の流れがあり、偉いと思う。 3人の音楽家、これまでそれぞれ多くの楽曲を世に送り出している。 さだは、音楽好きの母の影響だという。 ピアノは高かったので、 バイオリンを買ってきた父。 その父が、スパルタ教育の先生にさだをいかせた。 長崎時代、毎日音楽コンクールで賞をとり、東京にでる。 音校を受けたがすべり、普通校に進学。 音楽に進むのにお金がかかるので、その道を断念した。 その後、フォークソングブームに出会い、自分にも出来ると思った。 自分で作った曲を誰も歌ってくれないから、自分で歌うようになった。 克久と息子隆之は共に同じパリの音楽学校に留学する経験を持つ。 日本でフランス語を勉強して言っても、全然通用しなかった。 ただ、費用の点でいうと試験の時に2000円ほどいるだけで、 授業料はただであった。 そのことを、さだは、芸術家を育てるのにパトロン的な存在は必要と考える。 隆之は、留学のこころえとして父克久に、 今まで習った音楽をお金でを切り売りしつづけることといわれた。 そのことの意味は、仕事をするようになったわかったと隆之はいう。 仕事として食べて行くのに、 音楽のジャンルにこだわっていてはだめと、 隆之は、受け入れるようになった。 良一、克久の流れで仕事はくるだろうが、 それに値するものをようきゅうされると、父克久がいう。 音楽は環境に影響されると、さだ。 祖父は、尺八、祖母は筑前琵琶の名手だった。 隆之は、遺伝子としての七光りはある。 その力が、存在することを認める。 20年仕事をやってきても七光りで食っていると感じている。 その逆もくると、克久は警告する。 さだの息子は、バイオリンでプロとして活躍中だが、 子供には、やらせたいとは思わなかった。 音楽家として、一人前になることが、 祖父良一への功徳だとさだが、隆之にいう。 克久、音のある世界がエクスタシーだと。 学校での勉強では、味わえるものではいということである。 さだが、克久の言葉として大事にしているものがある。 音楽作品は、音楽家が命をけずって作りだす、 神にささげる雲みたいなもの。 克久は、音楽はきれいでないとだめという。 職業は何と聞かれると? 音楽家といわないし、名刺にもかいていない克久。 バイト生活50年と、笑いながらいう。 まだ音楽家として極めてないという意味なのだろうか。 音楽で生活をしていくことの厳しさをよく知っている3人の男。 そして音楽をこよなく愛し、大切にしている。 さだを軸にして、克久親子との関係は、 何でも言い合える遠慮のないいい関係である。 今後も、音学を通じ世の中に貢献していく。 ざっくばらんな関係って見ていて素晴らしい。 充分に楽しませてくれた鼎談であった。 |
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